み(仮)

the best is the enemy of the good

「魔女の宅急便」 雑感

 ここ二週間ほどジブリ作品を見返しているのだが、だいぶ前に観たので忘れていることが多いなあ、と感じた。労働や仕事について人と話す機会をもらえたので、参考になると思い、「魔女の宅急便」を見始めたのがきっかけで、それから週に3本ほど観ているが、思いのほか観ていない作品も多い。先週はこの「魔女の宅急便」と「天空の城ラピュタ」、「おもひでぽろぽろ」を観て、今週は「風の谷のナウシカ」、「崖の上のポニョ」、「海がきこえる」と「茄子 アンダルシアの夏」を観るつもりで、すでに「海がきこえる」と「茄子 アンダルシアの夏」は観た。ちなみに「崖の上のポニョ」は途中でディスクが読み取れなくなってしまい、なぜだ、と思って盤面を見ると細かい傷が付いていた。残念である。

 


 「魔女の宅急便」はどこかで「女性の社会進出をテーマに描かれた作品」だ、と聞いていたので、Wikipediaかなと思っていま検索してみると、そうではないらしい。原作が角野栄子という人の『魔女の宅急便』という児童文学らしいのだが、原作のテーマがそうなのかも知れない。ともあれ、ジブリ版の方で主人公のキキの成長を描いているのはたしかで、ただし女性の社会進出という点で性的差別や結婚、家族などの問題をあまり描いていない。そこが不満であったが、他にも、ウルスラの家に遊びに行くシーンで、ウルスラが「魔法も絵も似ている」と言い、キキが「絵が描けなくなったらどうしたらいいのか」と聞くと、「何もしない。そのうち無性に描きたくなる」と言う。そんなんでいいのか? と思ったものだが、結局、キキの魔法は元に戻ったが、ジジの声が聞こえなくなっており、何かしら文明に吸収されていく魔女の運命を物語っているように思えた。

 


 性的差別はなかったが、キキがトンボに「きちんと紹介されてないのに」と言ってトンボのなれあいを拒むシーンがあり、そこでトンボが「おばあちゃんの言ったとおりだ」といって冗談半分に言う。ある種の前近代への差別が混じっているようにも思えるが、このあとキキとトンボが最後にかけて友情を深めていくのだが、結局のところ、恋愛関係には発展しなかった。キキは最後まで、「わたしの友達なの」と言っていたが、キキはこれからトンボと家族を作るのだろうか。

 


 黒猫のジジの声が聞こえなくなった、というのは示唆的で、ジジは作品中で、文明に対して嫌味を言うものとして存在する。それが聞こえなくなったというのは、魔女としての力が完全には元に戻らなかった、ということのほかに、キキが文明社会に馴染んでいったことの証ではないかと思う。ただし、エンドロールでキキはトンボが走る上でモップを使って上手に飛んでおり、飛行能力は失われていない。これは仕事で使える能力で、女性としての結婚、という安直な終わり方にならないようにしたのだと思う。ただし、ジジは家族を設けているから、キキはその後も実家には当分帰らず、そこで生活するものと考えられる。それはいいのだが、キキに至っては魔法というものが使えるのだが、実際女性として生きる人たちが魔法を使えるわけではないし、ウルスラのように絵を描いて生活出来る人も僅かではないか。魔法と絵から越え出ていくことのできる仕事を女性はどのように見つければよいのか、ということを考えさせる契機にはなったかも知れないが、解決策を与えているわけではない。

 


 とあれ、キキが女性として男性に阿ったりしない生き方には感心した。トンボもそれを「かっこいい」と言っており、理解しているように思う。性的差別や家族間問題を描かなかったのも、まあ当然なのだと考えられなくもない。それらは男性から見た女性の生き方になってしまい、女性が模索する生き方ではないのかも知れない。だからこそ、キキは魔女の服を脱がなかったのだろう。