み(仮)

the best is the enemy of the good

地震について

 その日は妹の試験の答え合わせをやっていて、久しぶりに夕方ごろ家にいたのだが、家の者が「地震よ。すごい地震。津波が…」などと言っていた。私としては試験のほうが大事だったので、数学の円の問題を眺めていたのだった。しばらくして、家の者があまりにしつこいのでテレビを見たら家々が津波に呑まれ流されているのが映った。うーん、たしかにこれはすごそうだ、と思ったが、私の想像の域を出るものではなく、興味も覚めたので、隣の部屋で「世紀末オカルト学院」を見始めた。

 あれから数日、いまや日本全体が地震に取りつかれている。


 連日何を流しても地震のことを報道する各テレビ局もそうだが、街を行きかう人も地震以外のことを囁き合い、それ以外のことは「自粛」ムードが漂っている。何かおかしい。日本では昔、阪神・淡路大震災というものが起こったが、テレビ側は「それ以上の規模の地震」と報道し、視聴者の同情や憐憫を煽っている。まあ、それは別にそう思うのならいい、という話なのだが、そうは思わない人に「不謹慎だ」などという空気が日本を覆っているのはどうしたことか。先の大震災のことはあまり覚えていないが、どうだったのだろう。さぞかし住みにくい世の中だったのだろうか。

 それで思い出すのが(といっても私は平成の生まれなので、その頃のことは知らない)昭和天皇の死と「自粛」である。連日テレビが昭和天皇の死を「自粛」し、異様な雰囲気に包まれていたというが、今回、テレビで「思いやり」とか「心遣い」を宣伝する向きとあまり相違ないように思える。私はほぼ毎日twitterや他人のブログを巡回するが、どこも地震のことばかりで、浮ついた話はあまりない。私が関心を寄せるサブカルチャーの側でもそうだった(しかし最近はその傾向も落ち着きつつある)。

 TSUTAYAでは「テレビが退屈である」という事実を出したがバッシングを受け、都知事も「天罰だ」といって叩かれている。被災地の人の気持ちになれ、と言うが、なれない人がいて何が悪いのだろう、と思う。私が冷酷なのだろうか。地震が起こり、人が死ぬのは仕方がないことだと思うが、何か悪いのだろうか。開き直りだ、と言われるかもしれないが、本音を出して開き直りと言われるのは心外だし、「不謹慎」とされる発言をして被災地の人が何か被害を被るものでもあるまい。しかもこの類の発言は、ほとんどが被災地の外から出されている。多くは東京の文化人・知識人が発言、バッシングしているが、彼らの発言に何か空虚さを感じずにはいられないのはなぜだろう。

 本当に被災地の人に同情するのなら、やれることをすべてやってから不当な発言をバッシングすればよかろうに、彼らの意を組まずに内部で争いをやっているのだから惨めなのだ。私は何も支援をしていない。募金もしていない。毎日、暇だなあ、と思いながらエロゲーをプレイするか、アニメを視ている。だから、内部で争っている最中に向こうで死んでいく人間がいる、という事実に空虚さを覚えないではない。「不謹慎」とは何なのだろう、と思う。


 何のための思いやりで、心遣いなのだろう。意味があるのか。その手のわけのわからない感情や、戦略的な配慮(とあえていわせてもらうが、そこに人情を感じないわけでもない)のせいで延期や発売中止になったゲームがある。彼らにしてみればいいことなのだろうが、私にとっては暇な時間が長く続くだけだし、小売り業者も痛手を被るだろう。本当に配慮する気持ちがあるなら、寄付をするとか、人材を派遣するとか、すればいいだろうに。ただ「思いやり」をもって、被災地の人は救われるのか。私たちはどうなるのだ。