み(仮)

the best is the enemy of the good

下関と小倉の都会らしさ

 私は所用のため、週に一度ほど下関にある祖母の家へと行っている。最近はまったく働いていないのでカネがなく、今まで働いて貯めたなけなしのカネを使って生活しているので、モノレールなどという幾分、市民的な乗り物に乗って小倉駅まで行く余力がなく、自転車で駅まで30分ほどかけて行き、下関方面へJRで出掛けているという状況である。
 先日も用事があり、小倉駅まで自転車で行った。走っていてなおさら思うのが、北九州、特に小倉という地域は地元住民が思うほどに都会であるということだ。私の出身は下関だが、ほぼ高校生までその地で生活していて、私が「都会だなあ」と感じるのは下関駅前のシーモール、大丸、そしてダイエーがあることで、中には映画館、服屋、本屋、CDショップ、ホビーショップ…などの店が複合的に存在していて、空いた時間に駅まで行く度に、その「都会ぶり」に感嘆したものだった。
 何しろ、私の地元には本屋すらない。最近古本屋が出来たが、本屋に行くには私の地元から歩いて20分ほどのところにあるSATYまで行かねばならず、高校三年生のときに潰れるまでは居心地のよさもあってよく利用したものだった。しかし、プラモデルはともかく、CDとなるとSATYで買うことも出来ないから、今度は自転車で20分ほどかけてMAXVALUEのある地域まで出掛けなければならず、常ならぬ不便さを感じたものである。
 そういう状況であるから、中学生の時に初めて自分たちの足で小倉まで行ったときには、あまりの都会ぶりに驚愕したのを覚えている。人通りの多い商店街、おたく向けショップの数々、風俗店の勧誘、僅か1000円で観られる映画館。これが都会なのか。私は感動すると同時に怖ろしくも感じたものだった。
 もちろん、今では散歩の習慣も高じて度々旅に出るようになり、東京や京都の大都会ぶりも知っているし(それでもニューヨークなどの世界的大都市に比べるとどうか、ということはあるだろうが)、今では小倉が都会である、ということに若干の違和感はある。よく長く住んでいる人が言うように、小倉北区の、さらに小倉駅周辺のみがマチなのであって、少し離れたらイナカではないか、との意見には首肯せざるを得ない。
 さて、私は一年のうち何日か旅に出る。こういう経歴もあって、私は田舎よりも都市が好きだ。ところで私は「都市」と「都会」を使い分けているが、都市がどちらかというと場的な印象を与えるのに対し、都会は人間同士の関係する場という印象をもって使い分けているので、そこまで厳密な意味づけは行っていない。さて、いくつかの都市を主に青春18きっぷを使って回ってみて思うのは、小倉は意外と利便性に富んだ都市なのではないか、ということだ。
普通、都市というのは人の移動に伴い、発達するものである。人と言ったが、それはだいたい働いている大人の場合に限る。変化ではなく発達というのは、日本では労働者を中心に発展するものだからである。しかし、ここでは発達も含めた変化全般について話をすすめる。郊外に住居を構え、働きに出るために世の大人は毎日都市の中心に向かって移動する。郊外には郊外の利便的な生活があるように、都市にも都市としての利便さが求められる。たとえば、昼食を食べる場所が必要となり、ラーメン屋が出来る。何よりも家に帰るために、つまり郊外と都心を結びつけるために交通手段が必要となってくる。
 この交通手段の発展に伴い、都市には様々な消費する場が生まれる。大人に限らず、子供も交響の交通手段を用いることで容易に都市の消費者となりうる。(これに対し、車での移動に目を向けて先に発展したのが郊外型のショッピングモールだと言えなくも無いが、最近ではそのあたりの交通の境界線があいまいになっているので、よくは言えない。)
 この辺りのことはよい。指し当たっての問題は小倉がなぜこうも過ごしやすいのか、ということだった。それはモノレールという存在が核になっているようにも思われる。
モノレールは日本では東京が有名であるが、小倉になぜモノレールがあるのかというと、それはどうやら20年以上も昔に小倉を走っていた路面電車の経営上のアカが原因の一つとなって、モノレール構想が起こったものらしいのである。もちろん、原因はそれだけではないだろうし、モノ珍しさも相俟って出来たのだろうということは十分想像出来るが、このモノレールという乗り物、北九州を走っているモノレールしか乗ったことがないので自信はないが、どうやら路面電車内の風景と異にした印象を与えるものらしい。
 私は路面電車なら長崎、松山、広島、富山、函館などで乗ったことがあるので何となく判るが、電車と違って狭いため、だいたい客はおとなしく外を見るかケータイを弄っている。しかし、モノレールは路面電車以上の乗車面積を優に誇り、そのため乗客は比較的リラックスしてお喋りなどに興じている。
ホームで待っている客を見ても、あまり他の客のことを考えずに人と話す客が多かったりするし、乗車の際もスムースに乗り降りでき、路面電車で座るかどうかを躊躇うようなこともなく、ストレスが少ないのがモノレールの特徴である。加えて、定期券は改札を通る時に利用するので、降車もスムースに出来るのである。
 つまり、モノレールは個人化した社会の中で優位な位置にあるのである。
 些か暴論のような気もしてきたが、モノレールがかくも居心地がよく、利便性に富んだ乗り物であるがゆえに、学生ら若者は大学のある近辺で学生街を発展させることもなく、小倉駅の周辺だけが変化を遂げてきたのだと思われる。ゆえに、おたく向けの店も多く、田舎と言われる割りにスターバックスなどの最近の喫茶店も多いのではないだろうか。そしてそれらの店たちは、若者が互いに摩擦を生むこともないように、マチの中に渾然と存在し続けられるのである。
 ところで、下関には大人や若者の移動が殆ど小倉に向けて行われるので、都市が発展しない。未だにシーモールが残っているのは、下関駅小倉駅の連絡の悪さもあるが、小倉まで移動する必要のない中高年、あるいは中高生がシーモールに屯するからなので、彼らに合うようにシーモールが出来てしまい、学生が自身の知性を磨くための場所としては向いていないのである。
 商店街も、昔は下関市立大学の学生が唐戸の商店街を盛り上げようとしていたような気もするが、それも長くは続かなかったようである。唐戸はそのため、未だに学生が寄り付かない地域になっている。かつては中野書店という地元の中小規模の書店があり、アマゾンがあったのかもしれないが、まだ大きくなかった頃なので、どうにか書店として継続していたが、アカが大きくなると自己破産をした。ダイエーにも店を出していたが、潰れてからは全国展開しているくまざわ書店が店を出し、中野書店が専売していた小中高の教科書も一時は代執行で販売するようになり、徐々に利用客も増え、大きくなっていった。最近、商店街を訪れることがあったが、幸太郎本舗という名前に変わっており、フランチャイズ経営になったようである。だがこれも学生を惹きつける書店とはならないだろう、と私などは見ている。
 商店街は唐戸がそのような感じであるので、軒並み栄えてはいないようである。もっとも、下関駅近くのグリーンモールなどは、近辺が朝鮮人部落が昔からある地域でもあり、昨今の韓流のブームに合わせたイメージアップと焼肉経営がうまくいき、何とかやっているようであるが、これも学生が行くような地域ではない。私のような物好きが、寂れた風景を楽しみに行くぐらいだろう。
 概して、下関は若者が離れていき、残った者は中高年、中高生ぐらいのもので、栄えなかったのだと思われる。最近では駅も含め、全国展開しているファストフード店や衣料品店を誘致して盛り上げようとしているようだ。これがどのくらい功を奏するのかわからないが、結局のところ、小倉と対置された場合、見劣りされるのは目に見えているので抜本的な解決策とは言えないのではないか。
 私が高校生の頃、よくクラスメートたちがバスに乗っているのは老人ばかりだとため息を付いていたが、交通機関にも若者が落ち着ける空間がないとすれば、下関が小倉の郊外とされる日も近いのではないか、と感じる。既にそうなっているのかもしれないが、これ以上、下関を停滞させるべきではないだろう。とはは言え、私に下関をどうこうしようという気力はないのだが。