み(仮)

the best is the enemy of the good

『三文役者の死 – 正伝殿山泰司』

@yuurakuという人がtwitter

つーか、そこらの戦後のパーが書いた新書よりも殿山泰司読め、そのほうが戦争がずっとよくわかる。

と言っていたらしく, TLでちょっとした問答になったので気になっていたが, 近隣の図書館には殿山泰司の著作がなく, 代わりに新藤兼人の『三文役者の死 – 正伝殿山泰司』(1991, 岩波書店, 同時代ライブラリー 62)があったので読む。殿山と交友のあった新藤が殿山のことを調べて書いた伝記で, 近代映画協会成立までは重厚に書かれているが, 後半は映画論, 殿山の人情的なエピソードや役者根性のようなことが書かれており, まあ興味もないので少し読み飛ばした。
戦争については第二次世界大戦で乙種合格をもらい, 通信員として復員している。そこでの実情を新藤が苛立ちげに書いているが,

『三文役者の死』, 引き続き読んでいるが面白い。大陸で捕虜拷問を命じられたり, 老人や子供しかいない寒村に火を付けて掠奪などしていた状況で, 狂った軍人の補完として殿山が転属し, 猥本のガリ版刷り製作などをして上官から褒められている

タイムリーな話だと, 朝鮮人慰安婦と心中した軍人が内密に処理されているなどの情況も書かれていて, これは殿山自身がどう思っていたのかが気になるな

(*以下, 引用は@akawshitweetによる)

だいたい以上のように書いており, ある意味では腐敗した軍生活が描かれている。
これで戦争が分かるとは到底思えないが, @yuurakuという人は別のtweetで「三文役者あなあきい伝」を参照していることから, それにならった戦争観だろうと思われる。
戦後の戦争認識については人から聞くものと, メディアを通して知るものと, 2つのものがあると思う。歴史に関しては私は事実態度よりも事実がどうであったかを専ら重視しており, 歴史を語る態度に正当性などというものはない, と考えている。正当性というものを誰かが担保するのだとしたら, それは経験した当人の語る事実であって, 歴史ではないからである。
一方の伝達される「ナマの声」なるものに関しては, 歴史と同等に重要なものであると考えているが, 個人的バイアスのかかったものというのは当然として, その性質を理解認識した上で, 事情の正当性に当たるべきであると考えている。善悪や倫理と事実を一応分化しないと, 話にならないからである。この「ナマの声」, 個人的バイアスがかかっているのは当然としていいのだが, 戦後民主主義的な平和主義に従うものが多かったり, 青年軍人の悲惨な死を美化するものが多かったりするのをいいとは思わない。「声」である以上は平等に聞かなければならないと考えている。だが, その声を聞く方法論だけを賛美しても始まらないのはたしかであろう。問題は, 何を言ったかであって, どういう方法がいいか, ということではない。それはまた別の問題だろう。

で, 殿山の戦争観としては大方世間一般に見られる通りであって, 一筆に値するものではない。が, 以上のように戦争の別の側面を伝えていることについては, 一読に値する。これはたしかに新藤の主観が混じっていなければ書けないものであるが, それでも, である。特に敗戦後のやりとりで, 無一文で補給なし, 備蓄もない有り様の軍人たちが, 敗戦によって引き返した部落人たちの始めた支那そば屋で, 衣服を売って支那そばを食べるという復讐劇は読み応えがある。
@efnranさんは殿山を社会党出身者だろうと思っていたと言っていたが, 共産党である。共産党と言っても, 戦後の反動で日本全体が左翼化したような時代だから, 特別彼自身が左翼的だった, ということではないようだ。少なくとも, セクトだったのではない。

あと, 殿山が社会党に入党していたかどうかは知らないが, 共産党に入党して, 離党している。政治的関心からではないようで, 大戦からの反動で, 森幹夫に勧められて入っているが, 断れなかったからだろうと新藤は述懐している。

殿山が入党したのはもうひとつ, ビルマで弟の幸二郎が戦死したことから日本と戦争を憎むようになったらしく, 宮城で「ニッポンのバカヤロー」と叫んでいる。

戦前は演劇にも造詣があり, 新築地劇団へ入団しているが, これも思想的共鳴などではなく, 当時役者としての仕事がなく, 受けてみたら通ったと言っており, 後に一度退団している。新築地劇団は当初は商業主義と一線を画すと宣言して役者を集めているから, 殿山以外の劇団員も左翼だった, というのではない。当局から退散命令が出たときも「来るときが来たか」とあっさりしていたという。この後に新藤らと出会っている。

知らなかったのだが, 近代映画協会はレッド・パージの時に逃れるため新藤らが設立した独立プロで, 会社側から目を付けられた役者などが売られ, 勧告の対象となって撮影所に出入り禁止となったらしい。レッド・パージでは大映, 松竹らが共同で文書作成をしたらしく, 百名以上の役者らが対象となっている。が, 全員がアカだったとは考えにくいので, あらかた会社から目を付けられたのであろう。日活は活動再開後だったので, そもそも対象となる人がおらず, 東横は社長の牧野満男が「そんな人はいない」と一喝したというが, マキノ光雄のことである。乙羽信子も近映協に志願しているが, 「愛妻物語」での成功が引き金となって, 五社協定を破って参加している。五社協定というのは松竹、東宝大映、新東宝東映の大手五社が「各社専属の監督、俳優の引き抜きを禁止する」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%A4%BE%E5%8D%94%E5%AE%9A)主旨のもので, 以降, 乙羽は五社からパージされている。殿山は近映協に入ったために, レッド・パージを免れている。

さて, 殿山の自叙伝的著作には『にっぽんあなあきい伝』があるが, 新藤によれば表題の「にっぽんあなあきい伝」の「あなあきい」というのは照れ隠しであって, 本音が出た真面目な役者伝だとことらしい。もうひとつに『三文役者あなあきい伝』というのがある。ふたつの「あなあきい伝」だが, 「三文役者」の方は生後から捕虜期ぐらいまでのことが自伝風にかかれてあり, 真偽相半するといったかんじらしい。「日本」の方は復員後の伝記のようなものらしい。真面目に書かれている、とある。
殿山は49, 50歳のとき, ベトナムを訪れているが, 南ベトナムではアメリカに感謝しているのかと思ったら, そうではなく反米デモもあったので驚いている, という。「イノチを大事にしましょうよ」などと言っているから, 平和主義者だったのだろう。
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