み(仮)

the best is the enemy of the good

中上健次 「岬」 読書会について

 中上健次 「岬」 読書会について


 


先日、知人と二人で読書会を開いた。選書会の中で様々にテーマや本などを挙げていったが、結局僕が以前読んだことのある、中上健次の「岬」という作品に収まった。

読んだのはこれが二度目だが、今読んでも共感的になれるのはやはり、「岬」が(中上が、といってもよい)恋愛をテーマに取り扱っていないということが大きいのかもしれない。僕は生来、女性に対してはコンプレックスを抱いている。

例を挙げよう。


今日のことになるが、用事があって普段乗らない時間に電車に乗ったら、むかし好きだった(と、表面的には言える)女性が電車に乗っていた。彼女は僕をじっと見ていた。小柄な女性だった。見なければよいものを、彼女はじっと見た。だから視線を感じて僕もじっと睨んだ。数秒間目を合わせていたと思う。小柄な体格は目に入らなくなったが、その代わり、小さな目が癪に障った。彼女は40歳くらいに見えた。幼な顔つきなのだが、初めてあったときよりは皴が目についた。彼女は歳を誤魔化している。数年前に彼女のことを日々夢に見てうなされていたときに、そう思った。彼女は実際、僕と同い年のはずだった。だが、彼女の幼な顔つきが僕は嫌いだった。鉄パイプのきらめきをもってぐしゃぐしゃにしてやりたい、と思うこともあった。きらいだ。きらい、だ。おお、きらいだ。

だからその当時僕はあまり相談できずに日々もがき続けた。ラヴレターも送ったが、無視された。友人に相談したが、僕の好きであると同時にきらいで、ぐしゃぐしゃにしてやりたいと思う気持ちが理解できないらしく、鬱屈した2年間を過ごした。

もちろん、彼女がいたからこそ今の僕があることはわかっている。だが、聖書のような一説を今も僕は否定し続けている。そんなのは僕のラヴレターほどに意味がない。

 


わかるだろうか。わからなくてもよい。だから僕も恋愛小説をほとんど読まなくなった。

  だから中上健次の描く世界に共感的になれるのかもしれない。数年前にいろいろ考えていたことの大部分はいまや思い出せない。あの当時、小説など書いていたら同人作家ぐらいにはなれたかもしれない。今は、ただ、思い出せないことが無性に腹立たしい。だから、あれだけ嫌っていた小説に託すことにした。待つことにした。いつか僕がより共感的になれる作品が世に出るのではないか。女性というものを破壊してやりたい。無視したい。そういう欲望を持った小説家や、作家、シナリオライターが出てくるのではないか。そう思って僕は作品に馴染めないでいる。

 だからロリコンだ、と自称するようになった。それは性なのだ。


 


 中上の場合、これに近いことをやっていると感じた。だが、彼は男であるということにこだわりを持っていた。だが町田ひらくも男であることに執着している。中上は結婚した。町田は結婚していない(らしい)。この違いが彼らの性への態度の違いとなって表れているように、思う。こだわりと執着はどう違うのか。この違いは正しいのか。今後の課題として提示しておきたい。

 

 ともあれ、読書会はお疲れ様でした。また今度、次は何しましょう?水嶋ヒロ?

今後読書会のためのサイトを開設したいと考えています。そこで発表者のリポート、話したことなどを載せていければ、感慨も一入です。