み(仮)

the best is the enemy of the good

ビブリア古書堂の事件手帖

http://d.hatena.ne.jp/nunnnunn/20130415/1366053718

個人的には好きなドラマだった。ほんらいがドラマ嫌いで, 余程面白いと思えないと観ないのだが, これはちょくちょく観ていた。剛力彩芽が好きというよりは, ミステリーと「古本」をかけ合わせたストーリーが新鮮に思えたし, アングルの取り方, 光の使い方等がうまくて, 古本屋につきまとう「清楚」というイメージとか, ところどころ考えさせられるようなドラマだった。

僕はこういうドラマがもっと出てもいいと思うのだけれど, 悲しいかな, 視聴率の低さが人気と理解のなされ方を語っているようだ。

とは言え, 同じ月9で「鈴木先生」をやってたときも, 放送時は視聴率が低くて, 放送終了後に人気が出たと言うぐらいだから, 今後どうなるかわからない。もし人気が出ないようでも, このドラマの面白さを理解してくれる人がいると僕は信じている。僕にしたって, そもそもが知人からのツテで知った話だし。

剛力の言葉は頼もしいように見えるのだけれど, 原作についてはどう受け取ってよいか困るところである。いちおう原作の初め150ページぐらいを流し読みした僕としては, とくべつ難しいと思うところはなかった。ミステリーとしてはよく考えられているけれども, 結末から逆算して考えれば紐解ける程度のものだし, 無理もあまり感じられない。よくも悪くもミステリーものとして読める範囲内で, かつ普通では考えられないようなプロットが主人公補正と本の知識を知ることのカタルシスで, うまくまとめられているように感じた。

いちばん僕が評価するのは, 本の知識をミステリーの中であえて前面に出したことだ。これはこの作品の一番の売りだと言ってよいと思う。これまでラノベもののミステリーと言うと, 本好きが持ち前の知能を生かして問題を解決するというものが多かったのだけれど, 本好きであるがゆえの知識があまり入ってこなかった。本好きであることはたんに属性でしか過ぎず, 読者はキャラクターを通して, たとえば本好きが「物静か」であるというイメージを獲得するだけに過ぎなかった。

この作品では「本」にまつわるウンチクを手軽に得ることが出来るようになっている。ラノベならではの読みやすさを生かした利であると思う。功罪で言えば功にあたる。逆に, 罪があるとすれば, 相も変わらず読書好きの少女に, 清楚とかおしとやかとか, 頭がいいとか, そういったステレオタイプなイメージをもたせているところであると思う。「頭がいい」に関しては, もしヒロインがバカだったら作品にならないという反論もあるだろうが, 主人公が本の話を聞いて解決するという構成も考えられたはずだから, 残念ながらそうではない。


「ビブリア古書堂」の難しさ

さて, 剛力彩芽の発言に戻そう。

この「ビブリア古書堂の事件手帖」は決して難しい作品ではないということは今しがた述べたところであるが, では, 剛力がバカなのかと言うと, 僕にはそうは思えない。

だって, あんな味のある演技をバカが出来るはずがない, と思う。自信過剰に見えるが, これは主人公のイメージをいい意味で覆す。けっして「清楚」とは言えないが, 古書堂にふさわしい女性像として剛力は提示しているように思えるのだ。

以前, 僕は剛力の姿を可憐であると形容した。可憐と言っても, 元気があって活発な, ということではない。しとやかであって野心を秘めており, それでいて「少女」らしさを十分に伝えている, ということなのである。これは, 従来の読書好き少女のイメージをギリギリの線で保持しながら, なおかつ違った像を提示する。本好き少女に幻想を抱く従来の視聴者から原作ファンを裏切りながら, 離さず, でもこれはこれでありなのかと思わせる。

剛力の微妙なスマイルにしてやられたと思うのである。

彼女は確信犯的にわかって演技をしている。決してうまいとは言えない原作の文章を読むよりは, ニュートラルな台本の言葉から, イメージだけを掴み取り, 演技する。表現する。そのうえで, あえて「原作は難しい」と言ってのける豪胆さ。おそらく彼女は原作を読んでいるか聞いていたりして, あらかたの内容は知っているのだろう。

作品の質に視聴率は関係ない。面白い演技が見られたと最初の内は僕も感嘆していた。だが, 何か物足りない。それが剛力の知らない原作の「難しさ」に由来するものなのではないかと思った。


光と影

ドラマの演出の話になるが, 僕は映像を専門的に勉強してきたわけではないから, おそらく誤解があると思う。ただ, 僕が最初に作品を藤子不二雄の回で観たとき, 妙に夕陽が印象的だったのを覚えている。

それから剛力の演じる微笑がひどく新鮮で, どこか艶笑的だったのを発見する。僕が初めて剛力の演技を観たのもそれだ。ゆっくり回るカメラ, 不自然な位置で止まるアングル。顔のアップの背後には陽が差していて, ドラマの印象とは逆にどこか落ち着きのなさを感じたのだった。

夕陽と言えば思い出すのが, 新海誠の演出である。彼の作品には必ずと言っていいほど, 夕陽の差すシーンが使われる。新海の演出する夕陽には作品世界を印象づける効果が覿面に表れている。言わば, 夕陽の中にキャラクターが立っているということが出来る。主になるのはあくまで光によって映し出された世界だと言うことになる。

光が世界を演出するといったことが, ビブリアにも見られる。ドラマの演出でよく見られるような, 登場人物を前面に持ち出した打算的なシーンはこの光によって一歩後退する。剛力彩芽の微妙な笑顔だけが, 夕陽に照らされた古書堂的なイメージ世界に大きく映し出されることになる。

知人から, この作品は音楽も良いということを聞いた。はじめの内は気にならなかったのだが, なるほど, 注意深く聞いてみるとシティ系とでも言えるような音楽で, 「ビブリア」という語感によって表現された世界へといざなうようであった。悪く言えばブルジョア的な世界観であり, このことは明らかに狙ってやっているように思われる。

原作では「ビブリア」の陰に社会的なが見え隠れしていた。主人公は就活をせず, 自分に適応する仕事を探しているといった現代の若者をイメージした青年であるし, せどりをする中年の住環境や手の描写は, ドラマ版ビブリアが排除するものを描いてみせる。鎌倉を念入りに取材したと思われる原作の描写も, ドラマでは明確な空間として演出されるに留まる。つまり, 原作ではつながりのあるルートとして想像される場所が, ドラマでは固有の場所として視聴者の前に厳然と示される。だがそれはアニメやエロゲーの聖地巡礼者が望むシーン的なものであって, 夕陽などの光が演出しているものである。

ドラマでの影はこの場合は隠されている。剛力が原作を難しいとしたのは, ドラマがミステリーをロマンティックに描くことに気づき, それに執念をもやすことで鎌倉の光と, 光によって描かれた影とをミステリーの内部で描き出すことに限界を感じたのだ, と考えることもできる。だが, この文章だけではもはやどうにもならない。剛力がバカな役者であるか, 僕は今後も彼女を見つめることでそれを見極めていきたいと思う。