み(仮)

the best is the enemy of the good

ジブリ作品 その他 雑感1

 「天空の城ラピュタ」は特に感慨もなく観終わった。だいたい覚えていたということもあるが、テーマがわかりやすいために、新しい発見などはあまりなかった。ただ、「空から降ってくる女の子」の設定がその後の美少女ゲームや萌えアニメなどに模倣されている、ということが少し気になった。たとえば、「月は東に日は西に」(オーガスト)。その成功を受けてかは判らないが、後に続く作品でも天から降ってくる女の子は意外と多いのではないか。調べたわけではないが、主人公とヒロインの「邂逅」のシーンで多用されていると感じる。「月は東に…(通称「はにはに」)」ではその女の子は背中に羽が生えており、なにやら降ってくる「いわく」めいたものを感じさせるが、天から降ってこなくとも高いところから落ちてくることで、設定を柔軟にさせている。

 


 あとはパズーの馬鹿っぽさが意外と癪に障った。彼のキャラクターからして当然なのだが、宮崎アニメではこの手のキャラクターが、男の子に受け継がれることが多いような気がする。シータはその点聡く、逞しい。まあ、女性を逞しく描いているのは、常道ではあるか。

 


 


 「おもひでぽろぽろ」はあまり期待してなかったが、予想以上だった。Wikipediaによると、キャッチコピーは「私はワタシと旅に出る」なんだそうで、主人公の30代ぐらいのタエ子が会社で長期休暇を取り、山形県の親戚の農村へ紅花の採取を手伝いに行く。山形県で親戚筋の人たちと交流を深めていくなかで、小学5年生ごろのタエ子が見た世界が描写されるが、画面の切り替えが起こる前に小学5年生ごろのタエ子の影がちらつき、最後に大人のタエ子が子供のタエ子を振り切って終わりになる。

 


あらすじは農家で生活をするうちにトシオという、タエ子よりは若い本家の青年と交流を深めていく。さまざまな話をし、経験を積んでいくなかで子供の頃の情景が蘇り、田舎のよさを実感するタエ子だが、東京に帰る前日(だったと思う)に本家の老婆が「トシオの嫁になって本家を継がないか」、という話を持ちかける。タエ子は自分にその覚悟がなく、ただ「田舎はいい」と考えていた自分を恥じ、家を出るのだが、その道中でトシオの車と会い、自分がトシオをどう思っているのか、とか子供の頃に「おまえとは握手してやんないよ」と言われたあべ君のことを思い、話をする。トシオに「男の子のことがわかっていない」となじられ、あべ君の気持ちをトシオが説明する辺りから結末が見えてくるのだが、結局家を継ごうという決心から東京に帰り、山形に戻る。

 


エンドロールでバスや電車に子供のころのタエ子や同級生の影が一斉に現れ、涙ぐんでしまったが、確かに主題はタエ子の「成長」と「旅」であると思うのだが、根幹に田舎と都会の格差…というか認識のずれが潜んでいるように思う。それは紅花が貴族のもとに渡り、農家の娘たちは紅をつけることも許されなかった、というモノローグからも伺える。トシオは熱心に農家のことを訴えるし、タエ子もそれを聞き入るが、どこか他人ごとである。まだこの時点ではタエ子は都会に位置する人間だった、と考えると、そうなのかなあとは思った。関連して思い出したのが、「百万円と苦虫女」という映画で、まあ良作ではあるのだが、どこか遊蕩民の世界観があまり好きではなかった。それはよいのだが、その中でド田舎のマスコットガールにされそうな主人公が、田舎側の主人公のことを好きな男性に擁護されながらもついに「私には前科があるんです」と言って拒否する前に、田舎側の男性が「都会の人間は田舎は良い、田舎は良いと言いながら、結局そこに住まないではないか。田舎を舐めているのか」というようなことを言う。タエ子が自分の都会人間としての思い上がりを恥じるシーンで、映画のことを思い出したが、最後は東京に戻るのかなあと思って観ていたのに、結末は違った。たぶん僕なら東京に戻ると思うが、何か複雑な心境になった。もしタエ子が東京に戻ってサラリーマンらしき人と結婚し、田舎に来ることがなくなれば田舎は取り残された感じになり、悲壮感が漂って良作になるのではないかと思うのだが、そうならなかった。たぶんトシオが有機農業に目をつけたからではないかと思う。これが従来のままの農業であれば見捨てられる田舎として存在したのだろうが、有機農業に目をつけたことで、進歩する田舎になった。たぶんここで、田舎は都会に代わりうる価値観を持つことができた。だからだろうと思う。

 


何にせよ子供の頃の自分を捨てる、ということが僕には物悲しく思われ、エンドロールでタエ子を見送る子供たちが泣けてくるではないか。深く染み入る作品だと思う。