み(仮)

the best is the enemy of the good

記事感想 4/25-29

アニメ監督・神谷純氏、アニメ制作現場の分業化による弊害について語る。
http://togetter.com/li/292959 (Togetterから)
分業化することで演出の能力が落ち、作画に至ってもやり直しが容易ではないと言っているが、これだけ業界がアニメを制作しておけば、分業化もやむをえないのではないか。だから、良作と呼ばれる作品と駄作、あるいはあまり評価されない作品とが出てくるが、それもある程度は仕方がないのだと考える。それよりも、神谷自身がどうしたいのか、私はこれを読んでもわからないのが残念である。変えていこうとしない監督の作品など、観る気がしないというものだ。

AndroidiPhone対応エロゲに関する簡易メモ
http://d.hatena.ne.jp/efemeral/20120425/1335365729 (spring efemeralから)
モバイルPCはどうなった。Androidはわからないが、iphoneは展開次第ではいけるのでは? ただし、iphoneで展開させる以外で新味を出すか、他OSのソフトと関連性を持たせる、同一メーカーの旧作とリンクさせる…などのことをしなければ、まず一発花火で終わるだろう。

日本人女性声優の声、アニメの声とはやっぱり違う? 「日本人の女の子の話し方は、どうしてアニメとは違うのか?」
http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-9029.html  (「やらおん!」から)
若い女の話し方はある程度AVやアニメなどの影響を受けているような気がするが、男にも、また女に対しても変な声を出しているので、不思議な気持ちがする。中島義道が『醜い日本の私』(新潮文庫、2009年)の中で若い女のコンビニ店員に、どうしてそんな声を出すのか、普段はそんな声で話さないだろう、不快なので止めてほしい、という旨のことを聞いたとあるが、若い女にしてみればそれが一番出しやすいようになっているようだ。関連して、名前は忘れたが、ある男がニュースのコメンテーターとして若い女の声について、男に対しての防御手段として機能しているというようなことを言ったらしい。が、女に対しても変な声を発することがあるので、もはや日常的な動作と考えた方がよさそうである。
Macで感染しているマルウェアの傾向が明らかに
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1204/25/news029.html (「ITMediaニュース」から)
これだけMacが世間に認知されていても、純正Mac向けのマルウェアってあんまり作られないのね。WindowsありきのMacだから、仕方ないのかもしれないけど、Windowsを完全に廃したMacってMacとしての魅力が半減するよね? これまでの進化の歴史見ても。

フィギュアの保管について
http://togetter.com/li/293234 (Togetterから)
我が家の冷蔵庫、下宿だから共同なのね。クーラーつきのガラスケース作っても結露で見えなくなるしなあ。そもそも、部屋そのものにクーラーないしね。フィギュア造形師の皆さん、丈夫なフィギュアを作って下さい。むしろ食玩っぽい美少女フィギュアがあれば…面白いのかも…。

新海誠『星を追う子ども』を観る
http://abyukyo.blog56.fc2.com/blog-entry-317.html (「あびゅうきょブログ/快晴旅団」から)
「でもなぜ、この作品が思ったほど巷の話題に上らず、やはり従来のファンの間のみで語られるに留まってしまったのか?」
ジブリ、ビルディングスロマンなどの宣伝文句を謳っておきながら、中途半端な出来となってしまったからだろう。バックボーンは関係ない。リア充かどうかに至ってはあびゅうきょ氏の自己完結にすぎないだろう。最後にアニメの評価の悪さと日本の経済とを結びつけるあたり、氏のサヨクらしさが露呈していて、実にアホらしい。現在では一部のFlashアニメもネット上ではあるが認められており、PCさえ使えれば素人でもそれなりの主張は出来るようになっているし、アニメ制作を志すものなら紙に書いてそれこそジブリあたりに持ち込めば、評価はされないにしてもどこかしらアニメとして制作してくれるところがあるだろう。安倍吉俊などはアニメ界の中では東京芸大を出ているのでエリートではあるが、一般観衆からあまり評価されていないにしても一部のファンの間からはきちんとした評価を受け、「ユリイカ」に特集まで組まれているぐらいだから、成功したほうだろう。だから、アニメの評価の悪さと日本の経済がどう結びつけられるのか、きちんと説明してほしいものだ。
「星を追う子ども」以来の新海誠ファンは、エンターテイメントとしてのアニメとは一線を画したように感じられる雰囲気を、自分のものにしたいがためにファンとなっているのであると思われるので、「星を追う子ども」は従来の新海ファンであった私からすれば、駄作だと言わざるを得ない。わかりにくさをよく作品の出来のよさに結びつける者がいて、あびゅうきょ氏もその一人ではないかと思えるのだが、言わば「わかりにくいアニメ」はエンターテインメントとしても、作品の影響力の有無としても失敗しているのである。
氏が評価している死生観についても、作中では新海らしく最終盤でぼかしているので、逃げに思えてしまう。逃げとして見せる手法もあるだろうが、それにしても中途半端なのである。新海が宣伝していたジブリらしさも、観れなくはないが、現在のCG技術ならまず容易に可能だろうと考えられるし、「かみちゅ!」などは深夜アニメであるが、それなりの水準までジブリらしさを表現することに成功している。作品を評価する基準としては弱い。
地底世界「アガルタ」辺りで作品として面白くなるが、これも伏線が複雑に派生するので評価がまとまらない。この辺りを評価して死生観がどうという意見はあるだろう。しかし、それにしても終盤が失敗している。ジブリらしさを期待した観衆にしてみれば「間」を取って欲しかったと思うだろうし、新海ファンだった私にしてみれば「雲のむこう、約束の場所」ぐらいの映像の出来とナンセンスなシーンを期待していたのだが、挑戦して失敗した、と言うべきだろうか。
ジブリ宮崎駿の思想が背景にあって、アニメとして評価できるものになっている。新海に彼らの時代精神を追うことは難しいだろうから、彼は彼なりの映像で自らの思想を見せるべきではないだろうか。
あびゅうきょさん、これでも私は「リア充」ですか?